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2022-11-15

マチネとソワレの合間に…

時間って物理学なのよね。
アインシュタインは相対性理論を作り上げ、スポットライト理論はそこに矛盾を生じない時間理論のひとつ。
そう考えると難しいけど、今回のお芝居はそこの美味しいところをライトに拾い上げて組み込んでいる。
スポットライト理論を知ってからこのお芝居を見るよりは、このお芝居を見てからスポットライト理論を知ると「こういう解釈もあるのだなぁ」とすとんと落ちるものがある。
人間は知識欲を満たされることに非常に喜びを感じる。

今の自分は自分が選択し続けた結果の集合体であるという事は、自分を肯定する材料にも否定する材料にもなる。
自分で選択したと言いつつ、誰かに選択させられたと言いたいのが人間であるし、そう思わなきゃやってけない現実もある。
でも、大抵のことは自分で選択した結果だ。
誰かの言うことを聞かされたという事すら、聞かされることに抗い拒否できなかったという自分の結果だ。
そういう風に考えると卑屈になるし、しんどい。そうじゃない。アレは○○の所為で私の所為じゃない。

上手くいった結果だけを自分お手柄にして生きて行くという選択もある。
でも、正しくは「選択の結果の集合体」が自分なのであって、誰が選んだのかなんて関係ないのかもしれない。誰かが選んだ、誰かに選ばされた、自分で選んだ、そうだ、そうじゃない。いう事はいっぱいあっても結果の集合体が「今」だ。

芝居を見て思う。

人間は何のために選択するのか?
それは前に前進するためだ。
昔のバラエティー番組なんかであったような選択肢の書かれた扉に体当たしてぶち破って先に進むようなものだ。
その先が柔らかなクッションであっても、どろっどろの泥沼であっても、それが選択の結果であって、良くも悪くも先に進んでいる。
そして、扉の前で躊躇って立ち止まっているうちは先に進めない。

子供たちはたくさんの大人からの規制に縛られている。それを打ち砕くために先に進もうとする。
自分たちの前には先生という壁がしっかりとあって、そこに苦難を感じながらも何とか打ち砕こうとする。
もう少し大きくなると変化というものが自分の前に立ちはだかる。
先生はもういない、制限する大人はもういない、だからと言って自由ではない。乗り越えなくちゃいけない壁は見えないものになっただけ、今を捨てて先に進まなきゃいけないと言う状態になる。
少し後ろ向きな前進だ。
すっかり大人になると、その傾向はより強くなる。
もうそこにいてもいい。自分は立ち止まって歩かなくてもいい。
居心地の良い場所を卒業しなくていいし、嫌なら好きなところへ行っても良い。
それでも人は進む。選択して先に進む。

ずっと大人になって後ろを振り返ると、人生なんてブレイクスルーの連続だ。
なんだかんだ言って選択してしまうのだ。そこに停滞するという事すら選択なんだ。

こうして時間は積み重なってゆく、それらはすべて過去でありながらそこに存在する。
流れ去り消えて行ってしまったものではなく、そこにあり今を構成している。

そう言った沢山の「選択」を身にまとって、先に進む物語を劇場の客席から見つめている。

人生だなぁ。
そして、人生の中で輝く何かが青春なんだなと。

そんなことをつらつらと思いながら劇場前のカフェでこれを書いている。
この後は千秋楽。最後まで楽しんで輝きを眺めてきたいと思います。

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